椿りつの忘備録

椿りつの学びの記録や気づきをまとめたブログです。

宮内悠介『盤上の夜』

はじめに、この企画を機会に、この一ヶ月で宮内悠介先生の作品を集中的に読みました。
心を傾けたくなる作品がとても多く、こんなに次々とページをめくってもいいのだろうか。
と納得の咀嚼などできないままページをめくる毎日でしたが、なかでも、忘れた頃にページを開くたびに
響き、刺さる作品がありました。
 
また、『カブールの園』を読んでいる間は、移動している間や移動先でも作品に向き合いましたので、
多くの刺激を受けながら、作品と自分との関係を紡いだ実感がわきました。
本当に至福の機会をいただいたと感じています。
改めて、主催者の方及び宮内悠介先生に、お礼を申し上げたいとおもいます。
 
それでは、作品についてお話しいたします。
私は宮内作品が好きです。
 
最新作である『超動く家にて』にさえ、たとえくだらないお話を意図されていたとしても、
一筋縄ではいかない実直さを避けられない。そんな作家性が表れている気がします。
 
山田正紀賞を受賞された『盤上の夜』がたいへん胸に迫りました。
他の作品も目を通しはしたのですが、『盤上の夜』にまた目を通しますと、由宇と相田との関係の
魅力に、ただただ読み進めてしまいます。
 
この作品ばかりに集中すると、宮内先生の一生懸命とろうとされているバランスにまた舟幽霊のように
水を注ぐことになるかもしれないと知りつつ、この作品への言及を中心にさせていただこうと思います。
 
『盤上の夜』の内なる宇宙に入り込んでしばらく、由宇という名前の文字の意味を調べました。
「由」は”よしとする”。「字」は、手元の大辞泉によりますと、”建物・屋根・天幕などを数えるのに用いる”助数詞
なのだそうです。建物も屋根も天幕も、人が目を向けると、見上げることになるものです。
思わず、作中の”天空”を想起しました。相田九段によって言及されている由宇が登攀していたという棋理の最果ての”天空”。
由宇は、”天空”への登攀数を数えるために存在していたのだな。と思いました。
 
そもそもなぜ由宇は、生きているのだろう。と私は思いました。
作中ではさらりと言及されているだけなので、その生々しさを直接受け止めることなく物語を読み進めて
いけますが、この物語の主人公である由宇は、”四肢欠損”、両手両足を切断されている存在なのです。
 
こんなこと、自分の身に起こるなんてとても考えられませんが、あえて考えるなら、本当に恐ろしいことです。
それが、どうしてこうまでして、生きてこれたのでしょう。
まだ中国にいて馬と暮らしていたころ由宇を動かしていたものはただ、”助かりたい”。その一心だったと思います。
その他のことを、考える余裕もなかったでしょう。ただ、日本の大使館へ連絡をして、”助けてほしい”。
そのことしか、考えられなかった。
 
「碁を覚えたのは趣味のためではなく自由になりたい一心だった」と作中にはありますが、
「自由になって、その身体でどうするんだい」という馬の冷笑に対しての反応は描かれていません。
しかし、由宇は囲碁と、相田九段に、出会ったのです。
 
由宇自身にも理解の及ばない心境のまま相田と碁を打った時、はじめて由宇は、自分の欠損に
目もくれず、弱者や嗜好品という立場であることを決定づけている自分の身体にもめもくれず、
ただ自分に一局を求める人間に出会った。
 
胸が熱くなりました。
 
どうして彼女は碁打ちとして本質的にすぎるのか。
どうして彼女は自らの魂の高さを問い続けているのか。
 
大丈夫だから、もう報われたから。
 
「空の果ては、冷たく、寂しいよ」
「それでも、二人の棋士は、氷壁で出会うんだよ」
 
読み返したラストで、由宇と相田九段の対局が、二人の出会った際の最初の譜をなぞっているのに
気づいてしまったとき、さらに涙がとまりませんでした。